2012/05/30

学力は本当に低下しているのか

今日の教授会でも話題になっていたのだが,大学生の学力低下問題が指摘されるようになって久しい.

ところで,本当に大学生の学力は10年前,20年前と比べて低下しているのであろうか?

実は私はこのことにけっこう懐疑的である.

もちろん,ある一面において「低下している」と言うことはできるのだと思う.

例えば,私が受験生だった頃の18歳人口は文科省の『日本の将来推計人口』によれば,168万人ということになっている.それで,大学への進学率が53.7%である.

ここ3, 4年の18歳人口は120万人前後で,大学への進学率が60%前後で推移しているということを考えると,大学への進学は随分と簡単になったのであろう.

おそらく私の時代には考えられなかったような層の学生が国立大学に行き,私の時代には箸にも棒にもかからなかったような層の学生が名門私立大学の門をたたいているのであろう.

そう考えれば,多くの国立大学の先生が「最近の学生はできが悪い」と思うとか,私大の先生が「全く,最近の学生は」と嘆くのも当然の理である.

このことを問題にしているのではない.

つまり,話題にしているのは,学生を割合別に見て,つまり学生の全体像を見た場合に,私の時代の学生に比べて,現在の学生の水準が低下しているのか否かという問題である.

競争率が高い時代に一定数の上積みの人間だけをつかまえて,「当時は学生が優秀」と主張し,競争率の低い時代に同じ数の学生を同じようにつかまえようとしてもそれは無意味なことである.

仮に,18歳人口の減少に合わせて大学の門戸も減らすことができたとすれば,学生の水準は私の頃と現在とで大差はないのではないかというのが私の印象である.

ケーススタディーとして,世界の学力水準を示す指標として有名なProgramme for International Student Assessment (PISA)を取り上げてみよう.

最新のものでは,2009年のものが取り上げられているが,日本は読解,数学,科学と全ての項目において,OECDの平均値を上回っている.

読解は上海がダントツで556点,それに韓国の539, フィンランドの536, 香港の533が続いている.日本のOECD加盟国中の順位は8位である.

日本のスコアは520で,OECDの平均は493である.

2006年の日本のスコアは498で,OECDの平均が492.加盟国中12位だったことを考えれば,読解力の水準は上がっているということになる.

数学と科学の検証は辞めるが(実はちょっとめんどくさくなった...),それでも全体の得点の順位はOECD加盟国中,日本は8位である.

上海が突出しているのは別として,トップ10に入っている国の間にそれほど優位な差があるようにも思われない.2006年,2003年,2000年の日本ものと比べても20-30点の前後はあるような感じである.要するに,多少の上下はあるのである.

言うなれば,PISAの結果は受験生の予備校模試と似たようなもんで,とりあえず目安として上位グループに入っていれば特に問題はなさそうな感じなのである.

つまり,とりあえずは「学力低下問題」を確立した事実としたい人たちによって,PISAが取り上げられたというだけのことであって,「上がった」「下がった」と言う時の統計学的意義自体は,かなり疑わしいということだけは分かりそうなものである.

それにテストなるものは,常にある種の側面しか取り上げることのできないものであって,それを金科玉条のように扱うことに対する危険性も感じられる.

何が本当の目的なのかイマイチよく分からないが,文部科学省はまたまた教育方針を転換していくようで,結果,現場の教員に過度な負担を与えるということだけは,事実であるようだが.

個人的な見解だが,自発的な学習を進めるという意味でも,中学生段階での「総合的な学習」という試みは悪くなかったように思う.ここ数年の蓄積で,現場の教員の中にもいいアイディアを思いつくようになった人たちが数人いただろうに,そのアイディアを活用する機会がなくなるのは非常に残念である.

アメリカやイギリスといった大学のトップ層の学生と,日本の学生のトップ層を直に見てきた経験から,欧米の学生の主体性と問題発見能力に見習う点は多々あると私個人は考えている.日本では「指示待ち」の学生や若者が多いとされているが,それは他ならぬ教育の現場において,教員の指示以外のことをやってはならない,場合によっては教わっていないことができると罰せられるという現状に問題があるのではないかと思う.

緻密性やオリジナリティ,そして秩序を保つという点において国際的に優れている(少なくとも私は思っている)日本人が主体的に問題を発見し,そして取り組むことができるようになる機会を,「総合的な学習」が与えられる可能性があったのではないか.昨今のゆとり教育批判は,その弊害として,学生や教員から「間違える権利」を奪ってしまったように思う.

教科書に書いてある事項は,「事実」ではなく,試験で問われている知識は「正解」ではない.学生にも教員にも,ある種の結論や主張に至るプロセスを考え,提示されてある以外のルートを辿る権利が本来はあったはずだ.「正解」なるものが設定されてある試験の枠内での点数の増減だけに一喜一憂し,名門とされている高校や大学に受かることだけが優れた学校の評価基準ではない.大学教員が高等学校までの間にまず身に付けて欲しい能力は,既存の知識やデータ,主張をまとめ,それを検証し,考え,自分で何が分かり,何が分からないのかということを言葉や数学を使って表現することができる能力である.知識の詰め込みはそのための手段であって,目的ではない.

少なくとも,子供たちに「お前たちはゆとり世代でバカだ」と罵倒し,教員たちに「能力不足」と喚き倒すことによって,教育の質が向上することはありえないと思う.批判や文句は誰にでもつけられるが,そのことによって得られる優越感と引き替えに,他者に肯定的な影響を与えることはないという事実には自覚的でなければならない.人間とは,罵倒されてやる気が向上するものではないのである.

大学教員という立場から,優秀な学生は昔と同じくらいの割合で存在しているし,忙しい時間の合間を縫って奮闘している幼児教育,義務教育,高等学校,各種特別(支援)学校の教員たちは総じて「いい仕事をしている」ということだけは言わせてもらいたい.

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