2011/01/13

授業見学

えと,欧米では珍しくない光景なんですけど,今日はちょっと教育学の同僚さんの授業を見学させてもらいました.

他分野の人の授業ってのは,新たに知る機会も多いですし,楽しかったです.英語科の教員の育成なんかがあれば,またぜひとも見たいのですけれど(英語科教育法とか,わりと興味あるんだけどな).

私は記憶が確かならば,中学と高校の英語の専修免許を持っているはずなのですが,なんか知らないことも多かったです.さすがに77年以降の教育課程は分かっていましたけど(現行のやつなんかは,なんせ一昨年現場にいたもので).

授業なんですけれど,社会情勢や経済情勢なんかも絡めて,いろいろと分かりやすくまとめてあった印象でした.私は,教職の授業は,今では有名人になった小野田先生の授業以外は全部さぼっていたと言っても過言ではないので(本当に),なんかこういうしっかりした授業が提供されているうちの学生さんたちがちょっと羨ましくもあり(まぁ,ちゃんとした授業がないと大学に来ている意味がなくなっちゃいますよね).

私は,主となる勤務校ではピーチクパーチク英語を教えているだけなんですけれど,やっぱり基礎とは言えど,専門科目を教えられる方が楽しそうですよね.まぁ,私も言語学概論とか,専門の授業とか持って欲しいとか言われているんですけど,政治的な理由で持てていないとか,モゴモゴ.

まぁ,とにかくいろいろと刺激になりました.こうやってたまには他の先生の授業を覗くのも,お互いのためにいいと思うんですけれど.

よく考えれば,教育学って,私の認識が正しければ,基本的には実学ですよね.

教育学史みたいなことをやって,教育制度の変遷に関して評価するような学者ももちろん必要だけれど,やっぱり,より「有効な」教育制度の確立に貢献できるような学者が出てくれば望ましいなと考えている一般人は多いと思われる.

でも,教育における「成功」というのが,何を持って評価されるのかというのがそもそも難しい.

突出したエリートをなるべく養成するのが望ましい教育制度だと考える向きもあるだろうし,程ほどの人材をなるべくたくさん排出するのが望ましい教育制度だと考える向きももちろんあろうだろうし.

そもそもが,その国その国の社会制度というものがまずあって,その社会的利益にかなう人材をなるべく輩出できるのがいい教育だという原則もあるのかもしれない.

例えば,第一次産業(もちろん,クラークの定義で)が主要な産業であった場合には,その産業に見合う,第二次産業に重点がシフトされれば,それに見合うような,第三次(以下略).

といった形で人材を「柔軟に」養成することができれば,資本家や企業といった視線から考えれば,より望ましい人材を輩出できる優れた教育制度と言えるのかもしれない.

しかし.

そもそもが,こういった資本家や企業といった側からの養成というのは,しばしば自己本位的だし,時代時代の流れに左右されやすいし,決して人材を一人の人間として考えているわけではなくて,あくまで,将棋の駒の一つとして考えているわけですよね.

まぁ,それ自体は悪くないと思う.軍隊と同じで,企業など組織で動く団体は,指揮者の命に従う兵隊が大勢必要という事情があるわけだし,命令に逐一反対意見を述べられていては,できる仕事もできなくなってしまう.

端的に言えば,本当に資本家や企業といった側の養成に従った教育制度を確立するのであれば,一部の少数のエリート(世間で言われている求める人材なるものは,基本的にこのクラスに所属するのであって,後者ではないということには十分に注意したい)と,大半の兵隊ないしは奴隷が欲しいというだけのことであって,確立した一個の人格なるものは,後者に所属する人材においては,百害あって一利なしということになる.

これは困る.

教育というのは,そもそも既得権益を得ている大人達にとって,自分たちの秩序を保つことが,自分たちの利益を最大限確保することであり,かつそういった,社会にとって生来の状態なら無法者である子供達を矯正することが,自分たちだけではなく,ひいては子供達の利益にもなるという共同幻想に基づいて形成されているわけであるから,昨今の人格重視の教育は,企業側の論理で言えば,「ありがたくない」話ということにもなるわけである.

一方で.

エリートになれる才能を持つ人間というのも,本来,限られた数の人間であるはずである.

自分のキャパシティを遙かに超える要求に対して,多くの人間は耐えることはできない.

昨今の日本のように「普通であること」が寛容されない教育というのも,人類の大半を占める凡人にとっては,ストレスの源でしかないのかもしれない.

一方で,もし大半の普通の人間用に教育が設定されてしまって,エリートがその芽を伸ばす機会を摘まれてしまうのも,本人にとっても,社会にとっても不幸なことである.

誠に難しい.

普通であることが許容され,人間の理性が最大限尊重され,エリートが突出することが許されるような教育制度が確立できればいいのだけれど,これは定義からして矛盾を内包している感じがする.

まぁ,人間自体矛盾のかたまりなんだから仕方ないと言えば仕方ないのかもしれませんが.

さらに話を元に戻して.

学校という機関は,企業の論理から,学生を保護し,彼らの自由を守るという義務もあるのではないかと思う.

「企業の要請で」できた大学の学部なんかを見ると,大学におけるアカデミズムの価値もあながち捨てたものではないなと思うことがある.

例えば,流通科学大学なんかは,ダイエーの没落と一緒に偏差値も没落したし,慶應のSFCなんかも,私が受験生の頃はたいした偏差値だったのに,今は慶應のお荷物だし,企業の論理や流行に従って,「国際」とかいう名前をつけた大学ないしは学部は,今となっては地雷の目印になっていたりするし.

なんだかんだで,昔ながらの学術を保持しているところが生き残っているわけであるから,世の中そんなもんなんだろうという気がする.

まぁ,難しい問題ですよね.でも,なんだかんだで一定のレベルの高等教育制度が確立できて,かつそれを改善しようという体力があるうちは,その国家は健全で,現状がダメだとかいう話ができるのは恵まれたことなのかなとも思う.

後は,日本の教育制度において,なぜ「正解」なるものがかように過剰なまでに重視されるのかということも後日付記したいのだけれど.

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