2010/06/08

言語使用と意味の間にある隔離

言語学では,ある種の言語表現が表す意味を研究する意味論という分野と,ある種の言語表現がどのように使用されるのかという,言語使用という側面に焦点を当てた語用論という分野を区別するということになっています.

まぁ,区別がなかなかつかないファジーな境界線もあるのですけれど.

ちょっと具体的に考えていきましょう.

例えば,スペイン語では,呼びかけのことばとして,「Amigo」という言い回しが多用されますよね.

amigoということばに対応する日本語としては,「友達」ということばがあると思うのですが,普通,「友達」ということばはよびかけには使用しません.

私がメキシコに行ったときに体験したことですが,「トモダーチ」という呼びかけに日本語話者が違和感を感じるのはそのためです.

つまり「amigo」ということばが表す意味と,それが使用される適切な文脈というものは,スペイン語と日本語という異なる言語を比較することによって明らかになるわけですよね.

他にも,アメリカやイギリスで店員さんが客に最初にかけることばとして「May I help you?」というものがありますが,このことばの字句通りの意味は,文字通り「何かお手伝いすることはありますか?」という意味であって,「いらっしゃいませ」という意味ではありません.

ただ,日本では,店員さんが客に最初に呼びかける典型的な言い回しとして「いらっしゃいませ」ということばが定着しているので,「May I help you?」ということばを便宜的に「いらっしゃいませ」と訳すという慣例ができているわけですね.

似たような話で,例えば,夏目漱石は「I love you」に対する日本語訳は「我,汝を愛す」ではなくて,「月がきれいですね」の方がいいのではないかと考えていたという逸話があります.

これは,当時の日本では,異性に対して,「愛しているよ」と言う慣習がなかったということに端を発する,興味深い意訳として有名になっていますよね.

「I love you」ということばの字句通りの意味は,それこそ「我,汝を愛す」という訳語の方が適切だったのでしょうが,言語使用というレベルから話を考えれば,かような言い回しは日本語では「言わない,使わない」という事情により,自分が好意を抱いているということを相手に伝えるためには(場面にもよりますが)「月がきれいですね」の方が適切であると漱石が考えたから,ということなのでしょう.

かように言語の意味論と語用論という分野は,区別する意義があるものなのです,

前者はそれこそ,その研究に基づいて,言語の普遍性を問うということもできそうですが,後者はかなり個別言語によりけりで,かなり相対的な性質を帯びているということが言えそうです.

そんなこんなで,このようなことを考察する材料にすることができるという上でも,外国語を学ぶ意義は若い人たちにはありそうな感じですよね.

0 件のコメント:

コメントを投稿